ヤブイヌ日誌

ジャンルは特に絞らず、日常の経験や思いを気ままに書いていけたらと思っています。

【余暇の哲学】運命は変えられるか

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暇な時間に突然哲学してみる。

 

「運命は変えられるか」

 

よく漫画やドラマなどのフィクションでも取り扱われる題材。大体は”運命”に囚われている誰かが勇猛果敢な主人公の行動・言動によって囚われの状態から解き放たれることが多い。こういう場合は”変えられた”と表現される。

 

今回この運命論について私なりに暇な時間を使って哲学してみたわけだが、結論から先にいうと”運命は変えられない”のでは、と私は考える。

 

運命ってなんぞ?

運命ってそもそもなんだ?と思い、インターネットで調べたところ

  • 人間の意志を超越して人に幸・不幸を与える力、あるいはめぐりあわせ
  • 単に、将来を指す場合も

イメージ通りである。特に特殊な意味合いはなさそう。

 

運命が変えられる?

ここでちょっとしたケーススタディ。「ある人がいて、その人が今置かれている不遇の状況があったとする。その状況をまず運命ととらえる。次に、その人が何かしらの努力をして、その結果不遇の状況から脱することができたとする。」

この状況変化は紛れもなく努力から生まれたものだといえば、それは人の意志によって起こされた変化なので、つまり運命は人の手で変えられた、と言える。。。?

 

本当に100%努力の力なのか?

しかしちょっと立ち止まって考える。意地悪で屁理屈かもしれないが、本当に状況変化を起こしたのは努力だけの結果なのかというと、そうではないのではないか。例えば、受験。とある大学に受かるためにできる限りの努力をして、模擬試験でも毎回S判定、合格の期待度は90%以上、ほぼ努力が実ること必至のように見えるが、結局受けてみないとわからないもの。

もしかしたら、当日とんでもない体調不良に見舞われるかもしれないし、あるいは家が火事になって受験どころではなくなってしまうかもしれない。思わぬトラブルに巻き込まれることによって万全の状態で臨むことができなかったり、そもそも受験自体を断念しなければならないことも。つまりその人がどれだけ努力をしても、それを超越した”何か”によって努力が無に帰すことだって十分ある。あるいは、努力する意志と行動力があっても、成果を発揮する前に努力を続けられない状況に陥ってしまうことも考えられる。

何が言いたいかというと、何の外乱も受けることなく努力が続けられた、あるいは努力によって得られた力が無事発揮されたということ自体、すでに人の意志を超越したフォーチュン的寄与があるのではないか。

 

すべてが結局運命なのでは

努力という人の意志が生み出す力さえも、その成果の発揮にはフォーチュン要素があるとするならば、人の営みすべては結局、人の意志を超越しためぐりあわせの中にあるのかもしれない。つまり冒頭の文章に詳細付け加えると、

「ある人がいて、その人が今置かれている不遇の状況があったとする。その状況をまず運命ととらえる。次に、その人が何かしらの努力をして、運よく何にも阻害されず努力を続けられ、また運よく努力した成果がそのまま結びつき、その結果不遇の状況から脱することができたとする。」

もちろん努力も大切な要素のひとつだが、その他にも人の意志を超越しためぐりあわせも相まってこそ得られた状況変化であるならば、変化後の状況も結局めぐりあわせであり、運命である。つまり、

「運命だと思っていた不遇の状況を変えられる運命だった」

というだけなのかもしれないと。

だから私は、運命は変えられないのでは。と思ったわけである。

 

 

とてもくだらない土曜日夜のサラリーマンのあまのじゃく哲学である。きっと疲れているのだろう、早く寝た方がよさそうだ。